型 DT_DATEおよびDT_DBTIMESTAMPの間での変換がサポートされていない・・・

MicrosoftSSISを使ってExcelファイルを取り込もうとしたら、「型 DT_DATEおよびDT_DBTIMESTAMPの間での変換がサポートされていないため、列"Report Date"を挿入できません。」というエラーが発生。

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結論としては派生列を使って列を変換しないといけないみたい。英語になってしまうが下記の方の説明が役に立った。MSへの皮肉もこめられていて面白い。

http://www.dominicbordelon.com/2015/05/04/ssis-tip-converting-datetime/

この手のIT系の情報は日本語よりも英語で検索したほうが求めている情報にたどり着くのが速いきがする。最近、ますますそうなってきているのは気のせいだろうか。

無題

ときどきどうしようもなく体がだるくなることがある。起き上がることすら億劫に感じ、寝ているような起きているような半覚醒した状態で5時間も6時間も横になる。時間がもったいないという焦りは感じるが、とにかく何もしたくない。夕方ごろにのっそりとおきあがるが時間を無駄にしたというような後悔の念しか浮かばない。社会人になってからはだいぶ頻度が減ったが、それでも2~3か月に一度、なにもない土曜日や日曜日などに発生する。

働いていると人間の悪意やネガティブな感情に接することがよくある。知らないことをわかっていて聞いてくる、できないことがわかっていて依頼してくる、必要な情報をつたえない、無視をする、人前で小馬鹿にするなどだ。そうしたとき人間の底意地の悪さというものを感じ絶望的な気分になる。立ちすくむ。正直いまだにこの世の中の底意地の悪さの底がわからない。

2人以上人が集まると無意識のうちに比較がはじまる。暗黙の序列のようなものが発生し、そういったものに敏感な人は何とかして自分が優位に立とうとする。立とうとするが、しかし比較する基準(資産、学歴、容姿など)はそれこそ無限にあるわけでその競争にはきりがない。自分が他者より優れていると感じるところは強調し、他者のほうが優れていると感じるところは相手を貶める。延々とそれが繰り返される。大昔や原始的な集団であれば決闘といったより直接的な対決となるのだろう。が、学校や職場などではそうしたことは社会通念上許されていないため、よりオブラートに包んだ争いになる。より抽象的なレベルでのいがみ合い言い争い。そうした争いに熱意をもって取り組めるひとがうらやましい。面倒くさくなってしまうからだ。

自分も他者の中に自分より優れたものをみると嫉妬や悪意などが芽生えることがある。そうした感情を自分の中にみつけると心底嫌になり、人との関係をもつことが億劫になる。本来であればそうした感情を原動力として追いつこうと努力するのがあるべき姿なのだろう。なのだろうが、そうした競争が面倒だ。

お互いに意識しあいながらそうしたものは微塵も感じさせずに仲良さそうにふるまっている(少なくともそのようにみえる)人たちがいる。お互いの腹の底にはいっさい触れず、その場その場の状況で人との距離感を適度にとり笑顔と軽やかな話題で場をつなぐ。そういったことが自分にはできない。なにかこう演技をしているような気がして、ぎこちなくなってしまうからだ。左手で握手をしながら右手で殴り合う。そういう器用さが生きていく上では必要なのだろうか。

就職について考えてみた①

通勤時間は貴重な時間だ。TVを観たり横になったりできないぶん、読書や勉強に専念できる気がする。車両の中に閉じ込められ他に何もやることがないのだから当然かもしれない。家にいるとなまじいろいろな選択肢があるためか、昼寝をしたりゴロゴロしたりして無為に時間が過ぎてしまうことが多い。特に朝の通勤は一番頭がさえる時間のためか読書がはかどる。読書に集中したいときはずっと電車にのっているほうが効率的なのかもしれない。

仕事から帰るときは、疲れているためか頭がぼーっとすることがある。こういうときは実用書っぽい本を読もうとしてもなかなか読書がすすまない。何度読んでも文章が頭にはいってこないからだ。そんなときは小説や漫画をKindleで読んだり、Feedlyにたまった記事をみたりして駅に到着するのを待つ。これはこれでささやかな幸せを感じる時間ではある。

先週、仕事帰りの電車で下記のブログをみつけ、思わず読みふけってしまった。

www.keikubi.com

警察官を目指していたものの警察学校でいじめにあい退職、その後、人と接することが好きではないにもかかわらず、ブラック企業で飛び込み営業などをされていた方のブログだ。それぞれのエピソードがリアルで身につまされる。この方の経験とは比較にならないが、以前、いまでいうブラックっぽいIT企業で働いていたことがある。50人にみたない小さな会社で離職率が高く、3年もいれば古参の部類にはいるところだった。やたらと連帯感を強調し、ただでさえ忙しいのにボーリング大会やバーベキューなどが定期的に行われた。新入社員は忘年会や新年会で一発芸を強要され、けっこう全力で取り組まされる。地域のカラオケ大会へエントリして歌を歌うというのもあり、夜中まで働いた後の平日の夜、カラオケボックスに同期の新入社員があつまり、毎日振り付けの練習をしていたことを覚えている。入社した当日より朝から夜中まで毎日働き、休日もなにやらイベントが多かった気がする。そうした環境にどっぷり浸かると、いつのまにかその狭い会社の中の関係性だけで生きるようになってしまう。特に他の会社で働いたことがないと、その環境が当たり前のことだと考えてしまうようになる。私の場合、洗脳というと言い過ぎだが、ある種の視野狭窄であったことは間違いないだろう。

 

24時間営業のジムに行ってみた。

24時間のジムに行っている。トレッドミルや各種マシンなど最低限のものだけがおいてあり、自分のことは自分で行うスタイルだ。従来のオーソドックスなジムと比べ、非常に心地がいい。それはなぜだろうか。考えてみた。

 

①自分の好きな時間にいつでもいける

最大の売りだとは思うが24時間いつでも利用できる。これは非常に便利だ。平日はだいたいジムにいけるのは21時や22時など遅い時間だ。従来のスポーツクラブだと22時か23時にはしまってしまう。また1時間前には閉館のアナウンスが流れ居心地がわるくなる。24時間のジムであれば時間を気にせずいつでもいくことができる。深夜0時にいって軽く運動することもできるし、朝の5時にいって運動した後に会社にいくこともできる。いづれにせよジム側の時間の都合を気にしなくてよいのは非常に気持ちが楽だ。以前通っていたジムは朝の10時~22時まで(土日は20時まで)といった制約があったため、ジムの開いている時間までに行かなければならず少なからずストレスとなっていた。いまはそのようなことを一切考えないでいい。

②変な挨拶がいらない

従来のスポーツクラブは営業時間中は必ず施設側のスタッフがおり、目をあわせるたびに大きな声で挨拶をしてくる。そのこと自体は悪いことではない。悪くはないが、こちらも人として挨拶をしなければいけないような気がして、ときどき面倒に感じることがあった。特に気分が落ち込んでいる時などはそういうのが嫌でジムにいかなかったりした。24時間ジムでもスタッフがいるときはそうなのかもしれないが、そもそもがスタッフが従来のジムのようにたくさんいない。現在通っている24時間ジムでは、いまのところ入会するときに接点があっただけだ。普段かよっている際はいつも21時以降の夜間になるためかスタッフにあったことはない。

③社交場ではない

上記の②と関係するが、従来のスポーツクラブは体を鍛える点以外に社交場のような機能を提供しようとしている気がする。ダンスやヨガなどを通じて仲間をみつけて、みんなで仲良くといった雰囲気だ。スタッフがやたら笑顔で挨拶をしてくるのもそうした点を意識しているのだろう。もちろんそうしたものを求めている人たちはいるだろう。が、そうしたものを求めておらず、ただ単純に体を鍛えたいだけの人たちも一定数いる。振り返れば昔ジムにいっていたころはトレッドミルとマシンくらいしかほとんど利用していなかった。ダンスやヨガなど各種クラスが提供されていたが、ほとんど行くことはなかった。それはどのような気軽なものであったとしても、それらの活動から生じる人間関係のようなものにあまり関わりたくなかったからだ。ただ黙々と一人で運動ができればそれでよかったのだ。

④更衣室・シャワーが個室

従来のスポーツクラブは更衣室やシャワーが個室ではなく共有スペースとなっていることが多い。大きな部屋にロッカーがたくさん置いてあり、ロッカーの前で着替えるスタイルだ。そしてシャワーにいくときは更衣室で裸になり共有の浴室に向かう。いくつになっても見知らぬ人に裸をみられるのは気持ちのよいものではない。特に中年になり太ってきたなどの理由で運動をする場合は尚更だろう。こうした浴室ではしばしば銭湯のような大きなお風呂、ジャグジー、サウナなどがついていたりする。一人で利用する場合はともかく、他にもたくさん人がいる浴室でこれらを使うことはあまりない。たいていの場合、シャワーを浴びたらそそくさとでていく。また、こういう場所では体をふく場所も共同になっていて、ここでも人の目を気にしながら体を急いで拭くはめになる。今通っている24時間ジムは、ロッカーは共有スペースにあるが、それとは別に個室の更衣室が設置されている。服を着替えるときは着替えをもって更衣室にはいり着替える。その間は完全に一人だ。シャワーを浴びる際も必要な着替えをもって個室のシャワールームへ行きシャワーを浴びる。ここでもやはり一人だ。人目を気にせず服を着替えたりシャワーを浴びることができるようになっている。

 

ここまで書いて感じるが24時間ジムはよくできた仕組みだ。体を鍛えるという目的に特化し従来のジムが提供していた過剰なサービスをそぎおとすことで、利用者の利便性を高めコストを抑えている。丸ごとビルを一つ借りてプールをつくったり大浴場をつくったりするよりも、必要なマシンと簡易なシャワールームだけを設置するほうが最初に大きな投資をしなくていいぶんリスクも少ないだろうし店舗の展開もはやくできるだろう。必要な従業員の数も少なくて済む。今後スポーツジムの主流となっていくのではないだろうか。

 

いいことばかり書くのもなんなので気になった点も書く。24時間ジムの最大の弱点は恐らくセキュリティだろう。入館カードがあればだれでも24時間入館できる。スタッフがいない時間もおおい。更衣室やシャワールームが個室である点もプライバシーという点からは優れているが防犯上はあまりよくないといえる。24時間対応のセコムや防犯カメラを導入することである程度はそのあたりを担保できるのだろう。できるのだろうが、やはりお年寄りや女性はその点に不安を感じるのではないだろうか。

 

 

 

 

タックス・ヘイブンとタックス・イーターを読んでみて

前から気になっていた2冊の本を今週読み終えた。岩波新書の『タックス・ヘイブン』と『タックス・イーター』という本だ。

USCPAの勉強をするまでは、買い物をした際の消費税や自分が勤めている会社がどのような税金対策をしているかについては全く考えたことがなかった。100円を払えば当たり前のように8円を税金としてとられ(平成29年現在)、毎月の給料からはかなりの額の税金がひかれている。人が年老いていくのと同じように、日常生活において”税金”とよばれる国家への上納金が発生することをまるで自然現象のようにとらえていた。そもそも税金というとなんの面白みもない事務作業、江戸時代の年貢のようなイマイチなイメージしかもっていなかった。

はじめて上述の2冊の本を手にした際、その表紙のデザインが岩波新書の白と赤のスタンダードな表紙であったことから学術書っぽい感じの印象を受け一瞬ひるんだが、読んでみると非常に明快でわかりやすかった。我慢して読む類のものではなく一気に引き込まれる内容の本だった。

全世界において生活の隅々から有無をいわさず徴収されている天文学的な額の税金をめぐり、国家や地球レベルでどのようなことが発生しているかが非常に興味深くかかれてあった。AppleAmazonなどの多国籍企業が租税回避の疑いでたびたびニュースになっている。話題としてはよく聞くが実際にどうやって回避しようとしたのかやその背景についての情報はあまり報道されず何となくやきもきしていた。単にお金持ちの会社が法人税を節約しようとして悪事を働いているといった単純な構図ではなく、その背後には生き残りをかけた各国の思惑であったり、経済のグローバル化やIT化による経済活動の質の変化が背景にあることがよくわかった。各国の法律やルールは国境をこえることはできないが、お金は国境をたやすく超えることができる。その点をついた多国籍企業による租税回避や各国によるお金の呼び込み合戦が生々しくて描かれていて面白かった。まったく同じ経済活動をやっているのに売上をたてる国によってとられる税金が全然違うのであれば、より有利な国に売り上げをつけかえたくなるだろう。国によって巻き上げられる税金がタックスイーターで描かれているような使われ方をしているのであればなおさらそう思うだろう。

私のような庶民の人生のあらゆる局面から掠め取った巨額の税金が国家によって不明瞭のまま蕩尽され、毎年のように天文学的な借金が増えている。富裕層や大企業は、法律は国境を超えられないがお金は国境を超えられるという仕組みを利用し国家におさめる税金をなるべく避けようとする。資源や強い産業がない国はそうした租税回避をおこなう富裕層や企業を呼び込み巨額のお金を取り込む。国家のインフラを支える負担は庶民に押し付けられ富裕層や大企業はタックスヘイブンに富を蓄積していく。昨今、世界的な貧富の差が話題になるがこうした仕組みも関係しているのだろうか。全世界で統一された税に関する仕組みができればこうした状況も改善するのかもしれない。が、諜報機関が暗躍し各国の思惑が三すくみ状態となっているような現状では夢物語のような気もする。

このような状態がつづくのであればどの国に所属するかよりもどの多国籍企業に所属できるかが今後全世界の庶民にとって重要になっていくのかもしれない。

Netflixで火花をみて

HuluからNetflixに乗り換えた。一番の理由は『マッドマックス 怒りのデスロード』をみたかったからだ。映画館でみようみようと思っていたら2年近くたってしまった。時間がたつのは早い。『この世界の片隅で』はぎりぎり間に合って映画館でみれた。予想以上にいい映画だった。

最近仕事が暇なせいもあって毎晩のようにNetflixで映画やドラマをみている。気になるものを片っ端から視聴し、5~6本を10分~20分の感覚で切り替えながら見ていく。ツボにはまるものがあればそのまま最後まで視聴する。『舟を編む』、『告白』、『凶悪』、『悪の経典』、『フューリー』はツボにはまった映画だ。

Netflixが『火花』を映像化していることはしっていたがお笑い芸人(ピース又吉さん)が書いた本ということでどうも興味がもてず(お笑いにあまり興味がないため)、特に見ることもなかった。気になるものを一通りみてしまうとなんとなくNetflixをみなくなり、しばらくたってやっぱりもったいないから何かみようと思ったとき、『火花』が目についた。理由は単純で2016年からやっているNHKの朝の連続ドラマ『べっぴんさん』に主人公の娘があこがれるドラマー役ででていた林遣渡さんとワルがいっぱいでてくる私のすきなジャンルの映画で独特の存在感を放つ波岡一喜さんがでていたからだ。林さんも波岡さんもいろんなドラマや映画に登場されていて、画面にいるとどんなに短い時間でも強烈に印象がのこる方たちだ。

2話くらいまではあまり話にのめりこめず、他の映画やドラマと時々切り替えながら平行してみていた。3話からはのめりこんでしまい、10話(最終話)までいっきにみてしまった。ドラマの内容や面白かった点などを書こうとすると、表現力がないためかどうしても陳腐な表現になってしまうのでここでは書かない。ただ一つ言えることは、いろいろなサイトなどで紹介されているあらすじや感想よりもドラマはもっと厚みがあり味わい深く面白いという点だ。お笑い芸人を主人公としたドラマだけれども、胸が苦しくなるような切なさを感じさせてくれる。

舞台に立っていない(何もやっていない)人間が舞台に立っている(何かを表現している)人間を見下したりバカにすることはできない。ドラマをみていてふとそのようなことが頭をよぎった。一生懸命やってもうまくいくこともいかないこともある。うまくいかないことのほうが多いかもしれない。そんなとき舞台にすらたっていない人間がリスクをとって何かを表現しようとしている人たちを小ばかにしたり訳知り顔で失敗の分析をしたりする。自分は安全な場所におりリスクもとらず、ただ他の人が行った行動の結果を分析し批評する。何もやらなければ失敗もしないしリスクもないだろう。ただそういう人たちがリスクをとって何かをやっている人たちを批評することには強い違和感を感じる。このドラマをみたあと何かに挑戦しようとしている人たちに対して以前よりも温かい気持ちをもつようになった気がする。いつも通る道に新しい店ができたり、路上で何かを演説する人たちをみたりすると以前よりも頑張ってほしいと思うようになった。

ドラマの終盤で、売れなかった芸人はすべて無駄だったのか、いやそうじゃないんだ、成功したものも失敗したものもすべてひっくるめてお笑いという舞台に必要だったんだと、波岡さん演じる先輩芸人が話すくだりがある。成功しなければ意味がない。成功したもの以外は無駄だ。確かに正論だ。正論だが、そのような生き方は息苦しくないか。だとしたら100%成功するものしか誰もやらなくなるし、挑戦をして失敗をしたものを蔑むようになる。それは違うとおもう。リスクをとらず何もせずに批評ばかりしている人たちよりも、挑戦をして失敗した人たちのほうが尊敬される社会であってほしい。

何もクリエイティブな職業に限ったことではない。サラリーマンだって無関係ではない。リスクをとらず何もしないよりも、リスクをとってなにかを実現しようとしている人たちはみな表現者だ。新しい技術に挑戦する。新しい企画を提案する。新しい役割に挑戦する。すべてが自己表現ではないだろうか。否定的なことを言ってくる人やバカにする人たちがいるだろう。失敗すればそれみたことかと見下してくるかもしれない。でも、たとえ失敗したとしても何かに挑戦することはリスクを恐れてなにもしないことよりも意義があるのではないか。そんなことを考えさせてくれるドラマだった。

まだお笑いライブには行ったことがないが『火花』をみてライブをみにいってみようとおもった。元気になる気がする。いい意味でお笑いや挑戦することについての考えを変えてくれたドラマだった。

 

コマンドプロンプトのフォントに「MSゴシック」がない

昨日は多摩川大会にいってきた。二子玉川の河川敷に観覧席があり、打ち上げあげられた6000発の花火をビールを片手に間近でみることができた。夏の花火は風情があったいいなあ。

Azureで仮想マシン(Windows10)を作成し、コマンドプロンプトからアプリを実行しようとした。そうしたところ、アプリ配置場所の日本語のフォルダ名が文字化けしてしまっていた。よくみるとMSゴシックも選択できない。chcp 932などを実行してもInvalidなんとかと表示される。

そうしたところ下記解説を発見。

http://wavetalker.blog134.fc2.com/blog-entry-83.html

Azureの仮想マシのコマンドプロンプトはシステムロケールを参照するため、コマンドプロンプトで日本語を使おうとすると、システムロケールの設定変更が必要のよう。

1.[コントロールパネル]→[時計、言語、及び地域]→[地域]を選択してダイアログを開いて[管理]タブを選択。
2.[管理]タブにて「システムロケールの変更」をクリックして「現在のシステムロケール」のプルダウンから「日本語」を選択